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若い世代を惹きつける我孫子のイベント仕掛け人

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白樺派のカレー
ニュースレター第12号

2019年8月発行

 我孫子では、人気オンラインゲーム「文豪とアルケミスト」に登場する白樺派文豪のファンが白樺文学館などを訪れ、お土産に白樺派のカレーを購入したり、白樺派のカレーを注文し撮影したりと、「白樺派ブーム」が起こっています。我孫子インフォメーションセンター(愛称:アビシルベ)の池田ゆきこさんは「白樺派文豪」にちなみ「文豪とアルケミスト」関連のイベントを企画するなど、地域の活性化に取り組んでいます。

池田ゆきこさん

我孫子をもっと知りたいと思いアビシルベへ

 引っ越してきた当時はあまり我孫子市に興味はありませんでした。もともとはゲームデザイナーになりたいと思い、そういった学校にも通いました。しかし、様々な理由から仕事を辞めることに…。その後、アルバイトとして我孫子市内の書店で働くことになり、業務の中で地域の方とお話したり郷土史のコーナーに我孫子市の歴史の書籍が多くあることに気づき、もっと我孫子市を知りたいと思った際にアビシルベの求人広告を見て応募しました。いまでは地域の方とより密接にかかわることができ、やりがいを感じています。

コスプレを楽しむツアー

 普段は受付業務やお客様のご案内をしています。また、ゲームデザインの知識を生かし、イベントポスターのデザインやチラシの作成も行っています。市内外各所に掲示された「あびこ桜キャンペーン2019」のポスターも私がデザインしたものなんですよ!

あびこ桜キャンペーン2019のポスター

 スタッフの人数は少ないですが、協力しながらイベントの企画運営をしています。昨年は市内を巡るバスツアーを企画し、みんなでコースを考えました。私は文化財でコスプレを楽しむツアーを企画し、たくさんの方に喜んで頂きました。「なんでもやってみよう!」の精神で、よりみなさまに我孫子市を知って頂けるよう様々な業務にチャレンジしています。

旧村川別荘でコスプレを楽しむ

人気ゲーム「文豪とアルケミスト」のイベント

 ゲームデザイナーになりたかったくらいですので、幼少期よりアニメやゲーム・漫画が好きでした。成人してからもゲーム会社各社がどんなゲームを発表するか普段から気にしていました。その中で我孫子市にかかわりの深い「志賀直哉」「武者小路実篤」がキャラクターとして登場する「文豪とアルケミスト」を知りました。

 近年、アニメやゲーム・漫画の舞台として登場した地方や原作発祥の地を“聖地巡礼”と称し訪れるファンが増えており、私自身も何度か“聖地”を訪ねたことがあります。その経験から、地方が“聖地”になることにより得られる経済効果は計り知れないと感じました。今後、我孫子市を若い世代のファンが訪れる“聖地”としPRするべく「文豪とアルケミスト」をなんとか招致出来ないかと考えました。結果、様々な方にご協力を頂き「志賀直哉」「武者小路実篤」「有島武郎」の白樺文豪3名のパネルを作成し、「アビシルベまつり」や「白樺文学館」で展示するまでに至りました。

 おかげさまで、パネル展示期間中は多くの方が我孫子市に足を運んでくださいました。(数人にお話を聞きましたが、北は北海道、南は九州からいらっしゃった方もいました。)さらにインターネット上で「我孫子市はいいところだった」「また行きたい」などの感想も拝見し、我孫子市をPRする一歩になったのではないかと思っています。

我孫子の良いところを伝えたい

 もちろん「文豪とアルケミスト」の“聖地”として我孫子市をPRしていくことも大切ですが、「文豪とアルケミスト」に頼るだけではなく我孫子市単体でも誇れるものはたくさんあります。古代から続く歴史と、豊かな自然、四季折々の鳥たち、温和な人々…その中でも、白樺派のカレーは、100年前に我孫子に住んでいた白樺派の文人たちが食べていたカレーを再現したもので、我孫子市ならではの歴史的価値を持ったカレーだと思います。

文豪とアルケミストとは?

「DMM GAMES」より配信されているPC・スマートフォン向け人気ゲームアプリ。
【近代風情が漂う平和な時代に、突如として文学書が全項黒く染まってしまう異常現象が起きる。それに対処するべく、特殊能力者“アルケミスト”と呼ばれる者が立ち上がり、文学書を守るため文学の力を持つ文豪を転生させる。】
(文豪とアルケミスト公式HPより)
 プレイヤーは“アルケミスト”の能力者として、様々な有名文豪を転生させながら黒く染まった文学書を元ある姿に戻していくストーリー。転生した文豪たちは“イケメン”になっておりグッズはもちろん舞台化される等、若い女性を中心に人気となっている。
池田ゆきこさん:

我孫子インフォメーションセンター アビシベルに勤務5年目。栃木県日光市生まれ。幼稚園~小学校2年までを関西で過ごす。その後、柏市に移住。我孫子市には12年前に移り住む。住んだ年数では我孫子市が一番長くなりました!
我孫子インフォメーションセンター・アビシルベ
https://www.abikoinfo.jp
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カレーが縁「産・学・官の新たな取り組み」

白樺派のカレー
ニュースレター第11号

2018年3月発行

 2017年8月10日(白樺派のカレーの日)に新レトルト商品「川村学園女子大学バージョン(川女バージョン)」が発売されました。大学生が商品企画や販売プロモーションに協力するなど、大学と連携して生まれたコラボ商品です。J:COMテレビの「ご当地サタデー♪」に我孫子市長と共に大学生が出演するなど、我孫子の魅力発信にも大いに貢献しました。

 行政と大学の連携で生まれた街づくり活動の新たな展開について、昨年11月2日に川村学園女子大学の学長、我孫子市長、そして学生も交えて懇談会が行われました。

白樺派のカレカレーレトルト
川女バージョン

トマトジャムの開発がきっかけ

星野・我孫子市長 我孫子産のトマトを使ったトマトジャムの開発を皮切りに、大学との協力が進みました。さらに、白樺派のコラボカレーができ、川村学園には我孫子の街づくりに大いに貢献していただいています。大学が地元にあると、いろいろな形の協力ができ、我孫子市にもメリットがあり、地域での活動が就職の際に評価されるので学生にもメリットがあります。

星野市長

熊谷・川村学園女子大学長 大学としては、学生たちにボランティアに参加し地域に貢献するだけではなく、ボランティア活動を通して成長してもらいたいと思っています。白樺派のカレーの普及活動に参加させてもらったことはとても良かったと思います。たまたま高橋先生がご自分の研究で白樺派のカレーに出会ったことが連携のきっかけでした。

文献をもとに白樺派のカレーを再現

高橋先生・川村学園女子大学 以前、大学院(京都造形芸術大学)(✳︎)で学んでいた時に、「文献をもとに白樺派のカレーを再現せよ」という学習課題がありました。我孫子市内の大学に勤めていたにもかかわらず、白樺派のカレーを知りませんでした。調べて行くと、白樺派のカレーの普及活動には、白樺派の文学や当時の手賀沼の自然環境など多くの要素が組み込まれていることがわかりました。普及会に問い合わせていろいろなことを教えてもらいました。自分も普及会に入ってさらに活動を活性化させたいと思い、普及会の役員に加わっています。

(✳︎)ニュースレター第8号「大学院の授業に取り入れられた白樺派のカレー」参照

小野・白樺派のカレー普及会会長 高橋先生の熱意が普及会を動かし、コラボ商品としての新カレーができました。

川村学園女子大学で開催された懇談会

大学としての地域貢献

熊谷学長 学生は白樺派のカレーの普及活動に関わることで、なぜこのようなカレーができたのかを、時代を遡って知ることができました。白樺派の文人や手賀沼の自然などは我孫子にとって中心的な魅力です。我孫子に大学が移って来た時に、我孫子が北の鎌倉と言われるように由緒ある土地であることがわかりました。白樺派の文学的価値、100年前の西洋化、我孫子の自然が影響し合って白樺派のカレーという新たな価値が生まれました。これからも大学だからこそ出来るものがあると思いますので、そういうものに貢献してまいりたいと思います。

熊谷学長

高橋先生 カレーをインド料理だと思っている学生がいます。日本のカレーは西洋料理です。栄養士を育成する学科では、カレーを作るだけではなく、カレーがどこから日本に来て、どのように日本に浸透したかについても学習しています。カレーは学ぶことが多い良い教材です。学生が自分でカレーを作る場合、どのようなカレーにするかを考えさせますが、パッケージはどうするかということについても考えさせます。
 学生からいろいろなアイデアが出ます。しかし、それを商品化することは大学にはできません。アイデアを商品化する際に我孫子市と協力できるといいと思います。

高橋先生
(川村学園女子大学が開発したトマトジャムと新発売の川村学園女子大学バージョンのレトルトカレーと共に)

子どもたちと白樺派のカレー

小野会長 我孫子市の小学校、中学校では、栄養士さんのご努力により給食に白樺派のカレーを出していただいています。先日の日本女子オープンでカレーを販売した際、子ども達が販売ブースに来て、白樺派のカレーを見つけて「超有名!」と言ってくれました。とても嬉しかった。子ども達は給食で食べているので白樺派のカレーを知っているのです。

小野会長

熊谷学長 単なるボランティアで終わることなく、サービス・ラーニングに結びつくよう学生を指導してゆきたいと考えています。可能でしたら、子ども食堂といったものが、大学がある我孫子市の天王台地区にできると、大学から人材を提供することができますし、大学の教育学(幼児教育、児童教育)、栄養学、心理学などの専門性を活かして、貢献することができるのではないかと思っています。また、子どもカレーとして、あまり辛くない白樺派のカレーを作って、子ども食堂で提供することもいいのではないかと思います。

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東と西の結婚 − バーナード・リーチが残したもの −

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白樺派のカレー
ニュースレター第9号

2017年2月発行

 大正デモクラシーという“ハイカラな文化”が流行っていた時代、我孫子は芸術や哲学の重要な日本の拠点のひとつでした。当時は珍しいカレーが、民芸の創設者柳宗悦の妻、兼子夫人によって、白樺派の文人達にも供されていました。今回取り上げる“バーナード・リーチ(陶芸家1887~1979)”は、その兼子さんが作ったカレーに、「味噌を入れてみたら?」と提案したとされる人物です。現在我孫子の名物になった“白樺派のカレー”にいたる原点となる人物でもあります。

バーナード・リーチ

我孫子で過ごした青年期

「あの東に何マイルも伸びた、夢のような細長い沼 は、今も私の瞼の裏にくっきりと思い起こせる。」リー チは晩年、著書「東と西を越えて」の中で、手賀沼の思い出をこのように表現しています。
 バーナード・リーチを我孫子に呼び、その創作活動を支援した人は、白樺派の中心人物である柳宗悦でした。1916年、リーチは柳の自宅(現在の我孫子市天神坂上 三樹荘)に陶芸の窯を築きました。当時、芸術家が行きかうエネルギッシュな場所になっていた我孫子に、白樺派の文人達を慕って多くの人々も訪れ、 その中には陶芸家の濱田庄司もいました。
 ところが、1919年リーチの仕事場が火事で消失してしまいます。窯の焚きすぎだったようですが、リー チはおおいに落胆してしまいます。1920年、33歳のリーチは帰国を決心し、濱田庄司を伴いイギリスのセントアイヴスに帰ります。

リーチの創作活動

イギリスに帰ったリーチは、濱田の協力を得て、早速、日本の伝統的な“登り窯”を開きます(1923年)。これが後の“リーチ・ポタリー”です。ここで、西洋と東洋の美や、哲学を融合させた作陶活動が始まります。

 リーチは、“陶磁器は、芸術、哲学、デザイン、工芸、生活様式の融合したもの”と考え制作に没頭していきます。しばらくすると、世界から弟子を希望する人もやって来て、“リーチ・ポタリー”は、リーチの陶芸家としての拠点になっていきました。

 リーチが没頭した陶芸。その基となる土などは、それぞれの風土と大きな関係があります。また、創作に当たっての考えや技術も、それぞれの場所の特色に影響をうけます。西洋人のリーチが、東洋で出会って積み上げたものは、陶芸にとどまらない、一人の作家の、貴重な、深い感情史とも言えるものだと思います。

 1979年、リーチはセントアイヴスの病院で生涯を閉じました。92歳でした。彼はセントアイヴス郊外の墓地に眠っています。墓石には肩書きとして唯一“POTTER(陶工)”とだけ記されています。

 我孫子にあるリーチの記念碑に描かれている人物は、巡礼者として、西洋と東洋を越えた創作の真理を求め続けた、彼自身の姿だといわれています。

「巡礼像」をモチーフにしたリーチ顕彰碑 (我孫子市手賀沼公園)

 手賀沼だけが知っている、巡礼者バーナード・リーチと我孫子。彼がここに残したものは、太陽がキラキラと映る水面のように、今も輝いています。

*リーチ・ポタリー(製陶所)

 リーチ・ポタリーのあるセントアイブスは、アーティストの 多く住む町として有名なところです。
 このポタリーは、現在でも一部当時のように保存されていま す。2008年に新しく増設された部分には、ギャラリーやショッ プもあり、好評です。日本で体験した民芸の特色を持った作品 も多く展示されています。

リーチ・ポタリー
バーナード・リーチ(Bernard Leach、1887~1979)

1887年香港生まれ。英国人。父は法律家。
母はリーチを産んでまもなく亡くなったため、日本に住んでいた母方の祖父母に引き取られた。その後、父と共に香港、シンガポールなど数ヶ国を移り住む。10歳で教育を受けるため英国へ渡る。
1907年、ロンドン美術学校に入学、そこで高村光太郎と出会う。ラフカディオ・ハーンの著作にも触れる。
1909年、22歳で日本行きを決断。上野に居を構え、版画(エッチング)を教えた。この教室に柳宗悦や武者小路実篤、志賀直哉などの白樺派の文人たちが通っていた。
同時期、陶芸家の富本憲吉とも知り合う。この出会いが、リーチの“陶芸”に対する関心を大きくしていった。

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大学院の授業に取り入れられた白樺派のカレー 

白樺派のカレー
ニュースレター第8号

2016年8月発行

 京都造形芸術大学の松井利夫教授は、大学院通信教育部の基礎教育プログラムに白樺派のカレーを取り入れています。芸術環境研究分野の大学院生は、資料を頼りに独力で白樺派のカレーを作ります。芸術と白樺派のカレーの関わりについて、松井先生に伺いました。

松井利夫教授

白樺派のカレーとの出会い

 以前、京都造形芸術大学の大学院通信教育部の学生から白樺派のカレー・レトルト6個パックをいただいたことがありました。これがとても美味しく、白樺派のカレーに興味を持ちました。実際に白樺派のカレーを食べるために我孫子市まで足を運びました。あいにくその日は白樺派のカレーを提供しているレストラン・ランコントルが定休日で、白樺派のカレーは食べられませんでした。しかし、白樺文学館、志賀直哉邸などを見学することができました。白樺文学館では学芸員にお話を聞いたのですが、その方は京都造形芸術大学で学芸員の資格を取得していたことがわかり、偶然の出会いに驚きました。調べてみると、白樺派のカレーの普及活動が、文芸、食育、まちおこしなど多様な分野にまたがっていることがわかりました。

京都造形芸術大学
外苑キャンパス(東京)

授業に取り上げられた白樺派のカレー

 京都造形芸術大学の大学院通信教育部では、4年前から芸術環境研究分野の基礎教育プログラムに、白樺 派のカレー作りの実習を取り入れています。大正時代のカレーの献立表など、数点の資料を学生に提供し、白樺派のカレーを作らせます。学生は白樺派のカレーを一切食べずに、資料のみを頼りにカレーを再現します。
 芸術活動は地域と無関係ではなく、自分が暮らす地域から有形無形の影響を受けます。また、その一方で、芸術は地域を活性化させる存在でもあります。芸術活動は街おこしの側面を持っています。白樺派のカレー作りは、地域振興や文芸の振興、さらに食育振興などの幅広い価値観、いわゆる芸術の多様性という創造の根源を学ぶために適していると考えています。

マリ共和国(アフリカ)での授業風景

ネオ民藝

 カレーは味わえる芸術です。ごく日常的な材料で美味しく作ることができます。何度食べても味に飽きません。それぞれの家庭で味が異なり、オリジナリティを発揮できます。こういったことは民藝運動(注)に通じるものがあります。
 柳宗悦が関わっていた白樺派の文人たちは時代の先頭に立っていました。彼らは海外にも目を向けていました。彫刻家のロダンなど西洋の文化を日本に紹介したのも白樺派でした。柳宗悦らが提唱した民藝運動では文学に加え、食や住環境も統合して考えました。家の作り、生活、西洋文化、食などを上手く融合させ、日本のオリジナリティを活かした民藝運動を提唱しました。

 民藝運動は当時としては新しい考え方でしたが、現在の民藝は当時のスタイルをただ更新しているだけのように思います。そこで、私は「ネオ民藝」を提唱しています。ネオ民藝では、新しいライフスタイルを作ることを目指しています。つまり、サスティナビリティを重視したエネルギー自立型のものづくりです。地域に根ざしたエネルギー自立型のものづくりは、民藝運動そのものであると考えています。

(注)民藝運動

民藝運動は大正時代に柳宗悦らによって提唱された文化運動です。柳らは名もなき職人たちが作った庶民の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、生活に根ざした工芸品に美的価値を見出しました。

一汁一菜の器プロジェクト

 東日本大震災後に、被災者を支援する「一汁一菜の器プロジェクト」を始めました。最初は、避難所の炊き出しに使うどんぶり鉢を作って被災地に送りました。その後、大学と陶芸作家が連携して飯碗や汁椀など食事に必要な器をセットで作り、被災地に送る活動を始めました。昨年は2000セット、計1万個の器を送りました。本来、芸術は生活とともにあるもので、芸術により被災地の方々の食を支え、元気になってもらうことが「一汁一菜の器プロジェクト」の目的です。

大蛸壺の窯詰め
(信楽・陶芸の森)

民藝と白樺派のカレー

 白樺派のカレーを大学院の基礎教育に取り入れたのも、芸術活動は地域との関わりが大切だからです。白樺派のカレー普及会が行っている活動は、民藝運動に近いものだと思います。文芸や食育、まちおこしなどを一つにまとめて活動しています。これが大学院の基礎教育としてうってつけだったのです。

松井利夫氏
  京都造形芸術大学 教授、専攻長
  大学院 芸術研究科 芸術環境専攻
  芸術学部 空間演出デザイン学科
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パスティ物語 ー 英国セント・アイヴスでの出会い

English

白樺派のカレー
ニュースレター第7号

2016年6月発行

 白樺派のカレー普及会のメンバーの安河内志乃さんが英国滞在中にセント・アイヴスでパスティに出会いました。この出会いから白樺派のカレーパスティが生まれたのです。

セント・アイヴス

しっぽだらけのイギリス通信

 安河内志乃さんはご自身の英国滞在中に経験された出来事をエッセイ集「しっぽだらけのイギリス通信」にまとめられています。
 この本にセント・アイヴスでのパスティと出会いが綴られています。135ページから引用しましょう。「”Cornish Pasty” (皮がパリパリ、ころころ牛肉とじゃがいもと玉ねぎ入り)、どれも一コ60pから70p(百円ちょっとくらいです)でも、両手に余る大きさで、焼きたてのあつあつ。歩きつつお行儀が悪いな、とは思ったのですが、地元の人もそうやっているので、はぐはぐっとほおばりました。これは、どう表現すればいいか・・・とにかくどこで食べたのより皮も、中身も上等でした。」

安河内さんのエッセイ集

 セント・アイヴスは、ランズエンド(地の果て)と呼ばれるイギリス最南西部にある小さな町です。たまたま、人々が列を作っていたお店で購入したのが、コーニッシュ・パスティ(Cornish Pasty)でした。

セント・アイヴスの街並み

 あまりに美味しかったため、セント・アイヴスで食べたパスティは忘れられない思い出となりました。

 パスティは盛り上がった半円形をしたパイのようなスナックで、中の餡は牛肉・玉ねぎ、じゃがいも・蕪などです。歴史はとても古く、18世紀のレシピが残っているほどです。今でもコーンウォール地方ではパスティは人気スナックで、人々は歩きながら、おしゃべりしながら熱々のパスティを手軽に楽しんでいます。

バーナード・リーチと「東と西のマリッジ」

 「白樺派のカレー」は、お料理上手だった柳兼子さんのカレーに「これに味噌を入れたらうまいだろう」と、我孫子の柳家に逗留していたバーナード・リーチが提案したことから誕生しました。

 バーナード・リーチが暮らしたセント・アイヴスでのパスティとの出会いは、我孫子とセント・アイヴス、そして、白樺派のカレーとバーナード・リーチという偶然の結びつきを改めて意識させることになりました。リーチは「東と西のマリッジ」を提唱しましたが、白樺派のカレーパスティはリーチの言う「東と西のマリッジ」を現した食べ物ではないでしょうか。
 柳家の庭に築いた陶芸の窯が焼失した後、リーチは濱田庄司と共に英国に帰り、セント・アイヴスに窯を築きました。おそらくバーナード・リーチも濱田庄司も陶芸の作業の合間にパスティで小腹を満たしていたことでしょう。
 なお、セント・アイヴスのテート美術館分館には、バーナード・リーチの作品が展示されています。

白樺派のカレーパスティ商品化

 リーチがセント・アイヴスに窯を築いたのが1920年のことでした。そのちょうど90年後の2010年に、取手市のパン屋さん「クーロンヌ」にて「白樺派のカレーパスティ」が販売されました。同年秋に開催された「あびこスカイフェスタ」では、カレーパスティが飛ぶように売れ、慌てて増産する事態になりました。

クーロンヌのカレー パスティ(2010年)

 美味しい「白樺派のカレー」が手で持って楽しめる、というのがパスティの利点です。さらには2013年にはパスコが「白樺派の焼きカレーパン」とともに商品化し、イトーヨーカドー(千葉県東葛エリアと東京都東部エリア)で半年間販売されました。

イトーヨーカドーで販売された
カレーパスティとカレー パン(2013年)

再度の商品化を願っています!

 現在は残念ながらパスティの販売は行っていません。時々、パスティはどこで買えるのですかとのご質問をいただくことがあります。手軽に白樺派のカレーを楽しめるだけでなく、バーナード・リーチとセント・アイヴスにちなんだ白樺派のカレーパスティを再度商品化したいと思っています。セント・アイヴスのお店のように熱々のパスティを提供することが必要なのかもしれません。これまでの白樺派のカレーパスティの販売経験をもとにより息の長い商品としてカレーパスティを育てたいと思っています。
 「我こそは商品化したい!」と手を挙げてくださるお店や企業をこころよりお待ちしています。

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白樺派のカレー  デザインの系譜

English

白樺派のカレー
ニュースレター第2号

2014年5月発行

立体造形作家・吾妻勝彦氏が語るデザインに込めたメッセージとは?

吾妻勝彦氏

 今から100年ほど前、白樺派の文人達が千葉県北西部の手賀沼沿いに居を構え創作活動をしていました。そのうちの一人、柳宗悦の夫人兼子さんは、バーナード・リーチの助言を受けた味噌入りのマイルドでおいしいカレーを作りました。

 この地域に根ざした歴史と文化を、カレーとともに表すことができる人物は誰なのか? 白樺派のカレー普及会は、東葛地域を拠点に活動している、立体造形作家・吾妻勝彦氏にデザインの相談をしました。

 当時を振り返って、吾妻氏は、「最初のお話をいただいた時、大正時代、我孫子の手賀沼沿いに、エネルギッシュでユニークな時間があったことを、初めて知りました。最初の依頼は、「試作を重ねてきたカレーが、一般の人にお披露目するところまできたが、その時に、”ランチョンマット”を作って、より関心を持ってもらいたい。」というものでした。

 打ち合わせで渡された紙は、ほぼ真っ白で、自由に考えてみてほしい、ということでした。

 最初に考え付いたのは、白樺派の文人達は男性がほとんどでしたし、学習院の出身者たちもいたことから、シェフに”バロン”のような人物像をいれて、当時のカフェを舞台にしたようなイラスト背景をつくったら?というものでした。しかし、カレーを市民の皆さんに親しんでもらうためには、女性のほうが良いのでは?と思うようになりました。実際にも、カレーを作って振舞っていたのは”柳兼子さん”だったわけですから。

 そこで考えた案は”竹久夢二の絵に出てくるような女性”がキャラクターのものでした。当時、夢二本人が、白樺派にかなり関心を持っていたようでしたので、候補に上げました。しかし、普及会のメンバーより、この案は、「夢二の女性にあまりにも似すぎている。」と意見が出て、再検討しました。その結果、自信はあまりなかったのですが、現在のキャラクターに落ち着いたわけです。こうして主役は決まり、背景で何を表現するかになりました。普及会で一致しているのは、私たちは、今も当時も、手賀沼という存在から、いろんなものをもらっている、ということです。

 このことを、ランチョンマットの背景に盛り込もうと思いました。さらに、カレーの材料となる素材のカットも四隅に入れました。カレーは当時”ハイカラな食べ物”だったということで、そんな雰囲気も出したいと思いました。終わってみると、ランチョンマットは、カレーのデザインらしくないもの?になっていました。

ランチョンマット第一号
ランチョンマット第一号裏面
「白樺派の文人達を訪ねる散歩道」
解説文の小さな文字はすべて吾妻氏の手書き

 ところで、我孫子市は”市民活動の団体”が結構多いんだそうです。ランチョンマットに盛り込んだ考えは、市民活動をしている人たちの情熱、手賀沼に展開する風土、それら宝物が、これからも続くことを願う、ということでした。メインのキャラクターは、カレーを差し出しながら、我々を応援している姿になりました。

 この最初の出会いで、私も普及会のメンバーになり、それからは、普及会のミーティングで出たデザインの依頼を受けるようになりました。毎回依頼されるデザインは、私自身楽しんで表現できています。

 その後、新しい関係者の方々のご協力を得て、レトルトカレーも発売されたり、数多くデザインしてきました。結果として、メンバーの後押しもあり、私らしいユニークなものができていると思っています。気がつくと、当たり前のことですが、今度は、私が応援されている! ということになりました。」

 ランチョンマット第二号は、2008年夏に製作しました。往時の手賀沼周辺の田園風景をイメージしています。裏面は、みんなのアルバム同好会から写真の提供を受け、明治、大正期の我孫子の様子を紹介しています。

ランチョンマット第二号
ランチョンマット第二号裏面
レトルトカレー
贈答用6個パック
白樺派のカレーを提供する
レストランが店頭に掲示する看板
「白樺派のカレーあり〼」

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