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ストーリー

東と西の結婚 − バーナード・リーチが残したもの −

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白樺派のカレー
ニュースレター第9号

2017年2月発行

 大正デモクラシーという“ハイカラな文化”が流行っていた時代、我孫子は芸術や哲学の重要な日本の拠点のひとつでした。当時は珍しいカレーが、民芸の創設者柳宗悦の妻、兼子夫人によって、白樺派の文人達にも供されていました。今回取り上げる“バーナード・リーチ(陶芸家1887~1979)”は、その兼子さんが作ったカレーに、「味噌を入れてみたら?」と提案したとされる人物です。現在我孫子の名物になった“白樺派のカレー”にいたる原点となる人物でもあります。

バーナード・リーチ

我孫子で過ごした青年期

「あの東に何マイルも伸びた、夢のような細長い沼 は、今も私の瞼の裏にくっきりと思い起こせる。」リー チは晩年、著書「東と西を越えて」の中で、手賀沼の思い出をこのように表現しています。
 バーナード・リーチを我孫子に呼び、その創作活動を支援した人は、白樺派の中心人物である柳宗悦でした。1916年、リーチは柳の自宅(現在の我孫子市天神坂上 三樹荘)に陶芸の窯を築きました。当時、芸術家が行きかうエネルギッシュな場所になっていた我孫子に、白樺派の文人達を慕って多くの人々も訪れ、 その中には陶芸家の濱田庄司もいました。
 ところが、1919年リーチの仕事場が火事で消失してしまいます。窯の焚きすぎだったようですが、リー チはおおいに落胆してしまいます。1920年、33歳のリーチは帰国を決心し、濱田庄司を伴いイギリスのセントアイヴスに帰ります。

リーチの創作活動

イギリスに帰ったリーチは、濱田の協力を得て、早速、日本の伝統的な“登り窯”を開きます(1923年)。これが後の“リーチ・ポタリー”です。ここで、西洋と東洋の美や、哲学を融合させた作陶活動が始まります。

 リーチは、“陶磁器は、芸術、哲学、デザイン、工芸、生活様式の融合したもの”と考え制作に没頭していきます。しばらくすると、世界から弟子を希望する人もやって来て、“リーチ・ポタリー”は、リーチの陶芸家としての拠点になっていきました。

 リーチが没頭した陶芸。その基となる土などは、それぞれの風土と大きな関係があります。また、創作に当たっての考えや技術も、それぞれの場所の特色に影響をうけます。西洋人のリーチが、東洋で出会って積み上げたものは、陶芸にとどまらない、一人の作家の、貴重な、深い感情史とも言えるものだと思います。

 1979年、リーチはセントアイヴスの病院で生涯を閉じました。92歳でした。彼はセントアイヴス郊外の墓地に眠っています。墓石には肩書きとして唯一“POTTER(陶工)”とだけ記されています。

 我孫子にあるリーチの記念碑に描かれている人物は、巡礼者として、西洋と東洋を越えた創作の真理を求め続けた、彼自身の姿だといわれています。

「巡礼像」をモチーフにしたリーチ顕彰碑 (我孫子市手賀沼公園)

 手賀沼だけが知っている、巡礼者バーナード・リーチと我孫子。彼がここに残したものは、太陽がキラキラと映る水面のように、今も輝いています。

*リーチ・ポタリー(製陶所)

 リーチ・ポタリーのあるセントアイブスは、アーティストの 多く住む町として有名なところです。
 このポタリーは、現在でも一部当時のように保存されていま す。2008年に新しく増設された部分には、ギャラリーやショッ プもあり、好評です。日本で体験した民芸の特色を持った作品 も多く展示されています。

リーチ・ポタリー
バーナード・リーチ(Bernard Leach、1887~1979)

1887年香港生まれ。英国人。父は法律家。
母はリーチを産んでまもなく亡くなったため、日本に住んでいた母方の祖父母に引き取られた。その後、父と共に香港、シンガポールなど数ヶ国を移り住む。10歳で教育を受けるため英国へ渡る。
1907年、ロンドン美術学校に入学、そこで高村光太郎と出会う。ラフカディオ・ハーンの著作にも触れる。
1909年、22歳で日本行きを決断。上野に居を構え、版画(エッチング)を教えた。この教室に柳宗悦や武者小路実篤、志賀直哉などの白樺派の文人たちが通っていた。
同時期、陶芸家の富本憲吉とも知り合う。この出会いが、リーチの“陶芸”に対する関心を大きくしていった。

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